アイリーン 第二章 -カイン-
11.こだま
バンと強く打ち付けられた扉の音に、それ以上ないくらい体を震わせた。
「後で私の部屋に来るように」
親父が出て行く最後に言った声が、虚しく耳の奥でリフレインする。
習い性で体中の血の気が引いた。
怒気を隠さない、聞き取りにくいほど低い声。
有無を言わせない、絶対的な口調。
「…どういうつもりだ」
俺の代わりに、カインが口を開いた。
イーグルと父の後半の会話は大半を聞き逃したが、父親がこれまでになく激情しているのは、嫌でもわかった。
相手が悪いと判断したのか、対象を俺に移したのもわかる。
…どうしてイーグルはそんなことを俺に差し向けたのだろうか。
「おい!!聞いているのか!?」
「…聞いてるよ。でも、俺が言いたかったのは、本当に君の、…君たちの父親に言ったことそのままだ」
イーグルはカインからすぐに俺に目を移した。
青い眼がやけに深く見えて息を呑む。
その眼が、何と言っているのか、俺にはわからない。
「このままではいけない。正直、二人にもわかると思うけれど」
掴み掛かろうとしたカインを軽くいなして、俺に近付いてくる。
思わず後退り、ひくりと渇いたのどを鳴らした。
ひくり、ひくり。
うまく息が出来ない。
「……アイリーン?」
はっはと犬みたいに浅い息を繰り返した。
目の前が突如白くなる。
苦しい。
それしかもうわからない。
「アイリーン!?」
誰かが浮いた体を支えるのも、きつく手を握り締めたのも、薄い意識の中で、他人事のように感じていた。
唯々、低い声が繰り返す。
『お前は私の子供などではない』
いつかの、あの暗闇で聞いた言葉。
『お前など、生まれてこなければ良かったのだ』
耳元で大きく声が鳴り響き、白い意識の中を浮遊している感覚に襲われる。
痛いと零しても誰もそれを拾い上げてはくれない。
頭の中で、無理やり自分の意識が揺り起こされる。
もう一つの意識に。
動物は、小さな頃に『刷り込み』という習性に習う。
そうやって、親は育て、育てられていくのだ。
習性が、俺の弱さを叱咤する。
『起きろ。父親が呼んでいる』
『呑気に眠れば今はいいかもしれない』
『しかしそれは逃げに過ぎない』
『後で大きなしっぺ返しが待っていたとしても、お前はまだそうしているのか』
ひくり、ひくり。
やけにのどが渇いて、俺ははっきりしない視界を彷徨わせた。
まだ、明るさだけしか認識できない。
「ウィルっ!」
鈍く痛む頭が、これは弟の声だとゆっくりと呑みこんだ。
知っている。
これは、唯一俺を急かさない声だ。
体を揺する感触、それに浮遊感が混じり気持ち悪い。
「体を動かさない方がいい。意識は少しあるみたいだから、先に水を飲ませよう」
もう一つのこの声は、きっと…
「まだ、じっとしていた方がいい。…飲めるか?」
無意識に起こそうとしていた体を押し留められて、ひどく自分が焦っていたことに気がつく。
差し出された水に、これがほしかったのだと、素直に受け取った。
されるがまま、支えられ水を飲む。
まだその行為すらままならず、だらしなく口の端から一筋洩れた。
「い、いかなきゃ」
無意識に急く自分に、もう一つの意識が嘲笑う。
「ウィル、今は無理だ」
「でも、いかなきゃ」
「ウィル、ウィル。落ち着いて。父さんのことは俺が何とかするから」
俺を心配する瞳を見て、少し心が落ち着く。
それでも、父が怖い。
「いい。行く」
さっきより幾分しっかりと言えたと思う。
俺を少し見て、その気配を感じ取ったのか、カインが小さく息を吐く。
俺が頑固なのは良く知っているから、結局聞いてくれるのはわかっていた。
「無理だよ」
カインの傍らから声がして、俺は初めてはっとした。
先ほどの声がすぐにイーグルだと分かる。
「…あんたが口を出すことはない」
「どう見ても、無理だろう」
カインが剣呑な声を出す。
ドクンとまた心臓が嫌な音を立てた。
頭が、鈍く痛み出す。
「あんたに口出す権利はない」
「権利がどうこうじゃなくて、単純に心配して」
「それが迷惑だと言っている」
嫌な空気だ。
二人の声が俺の覚醒したての意識を揺さぶり、僅かな眩暈を感じる。
頭が痛むのを、俺は寒さのせいにした。
「そうだよ、イーグルには関係ない」
「アイリーン…?」
綺麗な額に皺が寄る。
もったいないから、そんな顔しちゃだめだよ。
「お願いだから、もうこれ以上関わらないで」
「…本気で言ってる?」
深いブルーを見ながら、ゆっくりと、それでもしっかりと頷き返す。
「今まで良くしてくれてありがとう」
一つ、小さく息を吸う。
「だけどもう、これ以上関わってほしくない。今すぐここを、出て行って」
最初に突き放したのは、俺の方だったんだ―…
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