アイリーン 第二章 -カイン-
12.虚無
『出て行って』
そう言ったのは確かに俺自身だったのに―…
はあ、と思わず深いため息を洩らした。
窓枠に肘を突いて外を眺めていた俺は、その外に腕を投げるように身を乗り出した。
ひんやりと少し冷たい風が俺の腕を撫でた。
「ウィル、風邪引くから上着羽織りなよ」
俺の肩にぱさりとカーディガンが掛けられる。
つられて上を見上げれば、カインが苦笑して俺を見ていた。
「ありがと…」
窓枠から腕を引いて素直にそのカーディガンに腕を通す。
わざわざ取って来てくれたのか、俺が昔からよく使っていたものだった。
使い古されたそれは、山吹色の毛糸が少しくすんで淡くなっている。
ここはカインの部屋で、そしてそこに俺がいるのはよくあることだった。
俺の部屋は基本的に無い。
よく土蔵の中に放り込まれていたし、そこから出されても俺に宛がわれた部屋は無かった。
階段下の物置を使っていないことをいいことに、布団だけ詰め込んで塒にしていた。
服は全て兄たちのお下がりで、見かねたカインが俺のために用意してくれたりもした。
その数えるほどの衣類も全部物置に放り込んでいたので、このカーディガンはそこから取って来てくれたのだろう。
「これ、朝起きてみたら客間に置かれていた」
カインがそう言って、真っ白な封筒を差し出した。
客間はイーグルが使っていた部屋だ。
オセロット家のそれよりずいぶんと狭いが、だからと言って他に部屋はなかった。
そこにこの清楚さを思わせる白い封筒があったことを想像する。
嫌になるくらい、無駄なことだった。
読むのは怖かったが、カインが俺を放っておく気配はないので、渋々渡された手紙の封を切った。
そこにはどこかこの近くと思われる住所と、『フィメーリア亭』という宿の名前、そして短く『何かあったら連絡してください』と書かれていた。
他に何も書いていないことを知って、勝手ながらも落胆してしまう。
落胆……?
俺は何を望んでいたと言うのか。
自分の身勝手な発想に唖然とする。
「…朝ご飯にしようか」
ぼうっとした頭のまま、ゆっくりと顔を上げる。
返事をしない俺に、カインは苦笑した。
「大丈夫…。父さんは隣町まで出掛けているはずだから」
そこでもう一度愕然とする。
この家の中で、カインの部屋と言う安全地帯を離れるというのに、父親のことを考えていなかった。
あの怒鳴り声、振り下ろされる手や足に毎日のように怯えていたのに、それを今忘れていた。
「ウィル?」
さっきから一向に喋らない俺に、心配そうにカインが覗き込む。
「あ、ああ。ごめん…」
無理やりに表情を作って笑ってみせる。
こういうのは、毎日父親の顔色を窺って生きていたから得意だ。
…でも、カインはその俺の“毎日”を知っている。
無言で苦笑するカイン。
そっと俺の頭に手をやって優しく撫でると、もう一度「行こうか」と言って苦笑した表情のまま俺に背を向けた。
そのまま部屋のドアを開けると…本当に出て行ってしまった。
パタン、という扉が閉じる音に我に返って自分も慌てて立ち上がる。
真っ白な封筒が目の端に映り、無意識にその手紙をズボンのポケットに突っ込んでいた。
そうしてすぐに部屋のドアを開ける。
「あ、ごめ…」
ドアのすぐ前にカインが待っていってくれて、俺が並ぶと一緒にダイニングに向かって歩き出した。
カインの横顔を盗み見ながら、そっとポケットを上からなぞる。
くしゃりと僅かに紙の擦れる音がした気がして、妙な罪悪感を覚えていた。
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