アイリーン 第二章 -カイン-
15.フラッシュバック
暗闇の中、ただ時間だけが流れた。
寒さに体が蝕まれ、いつの間にか震え始める。
体力も気力も使い果たした俺は、只々それが通り過ぎるのを待った。
それからどれくらいの時間が経ったのだろうか。
意識がフラフラと漂う闇の中、ふと一筋の光が差し込んだ。
ギィィと軋んだ音を立てながら、開いたその扉から洩れる光。
闇に慣れた目には眩しくて、思わず目を細めた。
(誰……?)
影がその先に見える。
ゆっくりこちらを窺っているということは、父親でもカインでもない。
一年ほど前の記憶がよみがえる。
(誰……セイル…?)
無意識に体がぶるりと震えた。
あの時も、夜目が利かなくて、声を聞くまで誰かわからなかった。
押さえられた感触に、ただ力の差を感じて怖くなったのを覚えている。
キリ、と無意識に唇を噛んだ。
「だ、れ……」
ひどく声が掠れた。
ようやく出せた声が情けなくて、余計に体が震えた。
「セイ、ル…?」
恐々、影に問い掛ける。
そのとき、ふと空気が動いた気がした。
「…違うな」
びくりとした。
久しぶりに聞いたこの声。
「…ランス兄さ…ん」
一番上の兄、ランセルは俺より9つ上で、セイルと母親を同じくして生まれた。
父に兄弟の仲でも良く似ていて、…嫌なことに、俺への態度までそっくりだった。
冷たい視線。
侮蔑の言葉。
唯一父と違うのは、直接暴力を振るわないところか。
どちらかというと、無関心。
俺が親父に殴られようと、そ知らぬ顔だ。
…セイルのときでさえ、眉一つ動かさなかった。
親父が一人怒りを噛みしめる中、ランセルは「仕方がない」の一言で終わらせた。
親父がそれ以上口出しできなかった理由もそこにある。
「ランス兄さん、どうして」
「どうしてここへ、と?」
半分影の差した顔は、無表情に輪をかけて恐ろしくもあった。
変わらない、蔑みの視線。
「俺もこんなところへと足を踏み入れる気はなかった」
じり、と静かにこちらに歩を進めた。
「仕方がないだろう。父上に言われては」
壁を背につけていた俺には、後退することも叶わなかった。
手を床に摺り寄せ、必死に隅へと体を近づけた。
「俺だって、お前になぞ触れたくもないよ」
手が伸びてきて、思わず俺は目を瞑った。
ぎっと胸元の布が音を立てて歪み、
びりっ
裂けた。
着ていたシャツの襟元から一気に引き裂かれ、そのまま床に引き倒される。
がん、と頬が打ち付けられた。
土の匂いが、鼻に迫る。
収まっていた鉄の味が、また口内に広がった。
「何の価値がある」
狭まる視界の中、眼前に膝を突くのが見えた。
しばらく視線を感じていたが、そのままふと動く気配がし、ズボンの紐が僅かながらに引っ張られた。
嫌悪感が走るものの、動く気力もない。
(嫌だ……助けて…!)
助けて、カイン!
イーグル!
なけなしの力で下唇を噛んだ。
回らない頭の中で浮かんだ顔に、現状とは別に涙が込み上げる。
自分の身勝手さを嫌と言うほど感じた。
そのとき
「ランセル様。お呼びの方が…」
戸口で声がした。
震える女中の声に、怒りとも不満とも取れる息を吐き、ランセルは立ち上がった。
ふと緩んだ緊迫感に、ゆるゆると目を閉じた。
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