アイリーン 第三章 -エミリア-

5.異変


まとまらない気持ちのまま何日かが過ぎて、オセロット家に再びお邪魔するようになって3週間が経とうとしていた。
そんなある日、本当にいきなり、カインが屋敷を出ると言い出した。
確かにお世話になる前に、『いつかは出て行く』と明言していたが、こんなに早くその日が訪れるとは思っていなかった。

「アカデミーに戻りたいんだ」

この国で言うアカデミーとは学問・武道を統括して指導する学校のことで、優秀な成績を修めていたカインは、上級生だったはずだ。
アカデミーの階級は4階級あり、14歳から入学できる。
カインは飛び級して16歳ながらに最上級生だと聞いた。

「最高学年を卒業したら、就職の紹介が貰えるんだ。あと1期で終わりだから、3ヶ月もすれば卒業できる」

その上、成績優秀者上位5名は授業料免除なので、それに含まれているカインは金銭的な心配もいらないらしい。

「でも生活費が問題じゃないの?」

俺としては真っ当な疑問だったんだけど、そんな根本的な問題はこの弟にとっては問題じゃなかったらしい。

「その辺は大丈夫。ちゃんと貯えがあるから」
「えっ!?」

そんなこと初耳だ。
だってあの厳しい親父がいる限り、隠して貯蓄することなんてできない。
お小遣いなんて可愛らしいものはもちろんないし、収入を得られそうなものは全く思い浮かばない。

「奨学金を受けてたから」
「え…?」

学費は今まで、父親がなんとか工面していたはずだ。
いくら貧乏な家であっても、アカデミーは国からの補助のおかげで学費もそんなに高くないので、息子1人なら払えなくもなかったはずだ。
詳しい数字は知らないけれど、月で換算するとそう大した額ではないと聞いた気がする。
全部朧気なのは、俺がアカデミーに通っていたわけじゃないことと、カインからの小難しい説明しか受けたことがないからだ。

「父さんには内緒で奨学金制度に申請を出してたんだ。家計が苦しいのは事実だったし、僕の成績も基準を満たしてたからほぼ問題なく通ったよ」

親の記入欄は流石に偽装しないといけなかったらしいが、慎ましやかな収入で暮らしていたのは確かなのでそれほど困らなかったみたいだった。
ただ事実を書けばいいのだから。
カインの話を頭の中で繰り返す。
カインが先のことを考え、そのために布石を積み重ねてきたこと、その事実に驚いた。
自分がどれだけ浅はかで、今にしか目を向けていなかったがわかる。

「アカデミーはピセの街から通うのがいいと思うんだ」

ピセは俺たちの住んでいた町とアカデミーのあるベネディという大都市を挟んで反対側にある街だ。
都市と言う程でないにしろ、ベネディに近いこともあり、なかなかに発展した街らしい。
アカデミーの学生や教職者も利便性のいいこの街に多く住んでいるという。

「ロバートのツテでピセの郊外にあるアパートを安く借りられることになったんだ」

ピセの街はロンメル家の領地でもあるらしい。
とても大きな街なので、統治しているわけではないが、警備隊の管轄や、役所の統率はロンメル家が大きく関係しているという。
不動産についても、ロンメル家が多く土地を保有しているのだそうだ。

「こじんまりとした1LDKだけど、俺は学校にいる時間が長いから、そう狭くもないと思う」

一部屋というのは引っ掛かるが、そんなことまで言ってられないだろう。
それに俺はどちらにせよ居候の身。我が儘が言える立場じゃない。
でもただの居候じゃだめだ。
自分の食い扶持くらい、自分で稼がないと。

「すぐには無理かもしれないけど、俺も働けるところちゃんと探すから」

寝るところを提供してもらうのだから、それくらいはしっかりしないといけない。
俺がそんなことを言い出すのを分かっていたように、カインは笑いながら付け足した。

「そう言い出すと思った。大丈夫だよ。ピセは豊かな街だし、治安もいいから働くにも最適なんだ」

これで俺が拒む理由はない。
でも正直、隣のでっかいのが気になる。
先ほどからまるでこの場にいないかのように、一言もしゃべらない。
青い瞳は何か考え込むように中空を見つめ、腕を組んで立っているその体は、壁に預けたまま微動だにしない。

「あんたも異存はないよな?」

カインも気になっていたようで、自らイーグルに同意を求めた。
返事が気になって、伺うようにイーグルを見た。

「初めからそういう約束だったし、俺が意見しても仕方がないんじゃないか」

イーグルはようやく口を開いたが、その言葉は驚くほど冷めたものだった。

「イーグル…?」

言いようのない不安が襲い、たまらず問い掛けるように名前を呼んだ。

「アイリーンだってもう決めてしまったんだろう?それなら、俺が口を挟むことじゃない」

こちらを見るでもなく、そう言い放つ。
視線が合わないことに、理不尽な苛立ちと寂寥感が込み上げる。

「…じゃあ、そういうことだから。ウィル、荷仕度をして」

いち早くその冷たい空気から脱したカインの声に漸く我に返り、俺もイーグルから視線を逸らした。
…そうだ。
俺が詰る権利はない。

「わかった…」

後ろ髪の引かれる思いで、部屋を後にする。
イーグルは、最後までそれ以上何も言わなかった。



 
 
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