アイリーン 第三章 -エミリア-

9.賑やかな街

 
空虚という言葉を身をもって実感した。
自分がどれだけイーグルに依存した生活をしていたか、思い知らされた。
毎日のように合わす顔。
優しい言葉。
熱を帯びると一層鮮やかになる青い瞳。
イーグルのその存在、仕草、俺に向けられていたすべてが一気に無くなって、心に穴が開いたようだ。
でも、これはイーグルだからってわけじゃない。
今そばにいるのがイーグルで、俺の前からいなくなったのがカインだったとしても、きっと同じことだっただろう。
いつかはどちらかを失うとは分かっていたんだ。
その時が訪れただけ。
俺は、自分に言い聞かすように何度も何度もそう繰り返し頭の中で思っていた。


「じゃあ行ってくるからね。僕の分はちゃんと帰ってからするから、アイリーンは気にしなくていいからね」

優しく微笑む弟を見て、今のこの状況が間違いじゃなかったと思う。
優しいカイン。
カインはアカデミーにすぐにでも復学するために、今から手続きをしに行く。
俺は今すぐに職探しをできるわけがないから、おとなしく留守番だ。
自分の少ない荷物を荷ほどきして、すぐにでも生活できるように整えなければ。

「いってらっしゃい。帰りはそんなに遅くないんだよね?」
「ああ。夕方には戻ってくるから、帰りに何か買ってくるよ。昨日の晩も十分な食事をしてないから、今日はなにかちゃんとしたものを探さないとな」

頷いて、そのままカインが出ていくのを見送った。
昨日の夜遅く、ピセの街に到着した。
向こうを出たのが昼前だったから、半日くらいはかかった。
シシィがくれたバスケットは昼食と化してしまって、こっちに着いた頃には二人ともへとへとだった。
夜も遅いからどこの店も開いていない。
仕方なしにお昼の残りのバゲットの欠片を二人で分け合った。
新しく住む家は造りは小さくて豪華とはとても言えないが、それなりに綺麗なところだった。
古いけれど、ちゃんと手入れがされていたようだ。
嬉しいことに、戸棚やテーブルなどの家具を以前の持ち主が置いて行っていた。
新居を構えるときに邪魔だからと置いて行ったらしい。
さすがにベッドはなかったので、自分たちの荷物から薄手の毛布を取り出して床に敷いて寝ることにした。
寝心地は最悪だったけれど、二人とも疲れていたのですぐに眠りに落ちた。
特に俺は、幼い頃からよく蔵や納屋に放り込まれていたので、床で寝るのは慣れている。
あまり威張ることではないが、ぐっすりと眠れてしまった。
起きた時にはカインが既に朝ごはんを用意してくれていた。
近くにパン屋があるらしい。
それを食べ終わると、手続きの話をして、カインが出て行ったのだ。
今日の寝床はどうしようかとか、これから何が必要になるだろうかとか、そんなことを考えながら自分の数少ない荷物を解いていった。

しばらくして、そんな荷物もなんとか戸棚に収めてしまうと、手持無沙汰になる。
カインの荷物を解いておこうかとも思うけれど、書物や衣服など私的なものが多くて、勝手にしてしまうのも気が引ける。
食器類はコップとお皿が数枚あるだけで、共有して使うものはほとんどと言っていいほどない。
どうしようか…
途方に暮れて、部屋を見回す。
リビングというほどのものでもなくて、簡易のキッチンと一緒になっている一部屋、一応セパレートタイプの水回りがその部屋に並列して付いていて、別にもう一部屋だけ申し訳程度の大きさの部屋があるだけだ。
しんとした室内。
物が少ないから余計に殺風景に見える。
込み上げる寂寥感。
オセロット家は広かったけれど、シシィやほかの女中さんたちも行き交いする人の気配のある家だった。
それに…
イーグルはなぜか、いつも知らないうちに俺のすぐそばにいた。
昔に…、実家にいたときに戻っただけのはずなのに、今はそれが耐えがたくなっている。
考えるな。
カインがいる。
働きに出るようになれば、こんな感傷にだって浸れなくなるはず。
どんなに誤魔化そうとしても、心の中に開いた穴は、いつまでも消えてなくなりはしなかった。


昼を過ぎて、何もすることが無く、ただ待っていることに飽きた俺は、好奇心に駆られて街に出ることにした。
アパートを出て、ちゃんと鍵をかけた。
そしてふと合い鍵がないことに気付く。
…カインが帰ってくるまでに戻らなきゃ。
鍵をズボンのポケットに落とすと、チャリンと音がした。
「お昼ご飯に」と言ってカインにもらったお金だ。
財布を持つ習慣がなかったので、素のままでポケットに入れてある。
財布も買わなきゃなぁ…。

アパートからしばらく歩くと、店がだんだんと増えてきた。
街の中心らしきところに出ると、所狭しと店が軒を連ねていた。
人が行き交う賑やかな街。
それが昼のピセの印象だった。
お昼ご飯になりそうなものを物色しようと、食品街のようなところを練り歩く。
八百屋に魚屋、お肉屋と色々とあるが、すぐにお昼ご飯になるようなものがない。
…調理器具を買って、料理ね練習もしなきゃなぁ。
問題は山積みだ。
シシィやミス・マゼルダが教えてくれていたのは“淑女としての嗜み”だったので、そこに料理は含まれていなかった。
もちろん実家でなんてしたことがない。
カインもできるわけがないから、料理が一番問題かもしれない。
でも、自炊しないわけにはいかないしなぁ…。
やばい、頭痛くなってきた。

そうやってグルグルと頭を悩ませているうちに、食品街を抜けたようだ。
良い匂いが漂っていることに気付き、顔を上げる。
目の前に、一段と賑やかな定食屋さんのような店があった。
元いた街にも似たような店はあったが、領主であるイーグルと入れるような店じゃなかったから、一度も中には入らなかった。
でも…
ポケットに手を突っ込んでジャリと小銭を握る。
足りるかな?
空腹に負けて、フラフラと店の中に入っていった。

「いらっしゃい!」

入ってきた俺に気付いて、気の良さそうな女性が声をかけてきた。
40歳くらいだろうか。
恰幅の良い身体付きで、発せられる声はとても威勢がいい。

「適当に開いてるところを探してくれるかい?」

その言葉と気持ちの良い笑顔に促され、すぐ近くにあったカウンター席に座る。
木製の長いテーブルと、質素な椅子が雑多に並んでいる。
客の大半は男性で、何かの作業着だったり、ラフなシャツやコットンパンツだったり…質素な町民の暮らしを想像させる。
かく言う俺も同じようなシャツにズボンを着ているわけだが、オセロット家の贅沢生活が長かったためか、懐かしいと感じてしまった。
実家での暮らしは、どちらかと言うとこっちに近かった。

「おい、ボーズ!ここは初めてか?」
「え?…っと、そうです」

一つ離れた席に座っていた中年の男性に話し掛けられて、慌てて何度か頷いた。
髪も切ったし、シャツも体の線がわからないような大きいものを着ているので、男の子に間違われたらしい。
仕方ないかな。

「ちょっとこの辺では見ない上品そうな顔立ちだねぇ」

奥さんだろうか。
おじさんの隣に座っていた女性が、テーブルの向こうから顔を覗かせた。

「おすすめはレモニラのサンドだよ」

聞いてもいないのに、朗らかに教えてくれる。
料理の種類なんか全然分からないので、有り難くそのチョイスを受け入れた。
さっきの快活な女性が来て、俺の注文を聞くと、そのままカウンターごしに大声で「レモニラ一つ!」と叫んだ。
周りの喧騒と言い、この店はとても賑やかだ。
少し見ただけだが、街全体がこの店のように賑やかな声や笑顔で溢れている。
騒然としているけれど、うるさいわけではない。
活気があるというか、楽しそうな街だ。

俺はどうやらピセを好きになれそうだった。



 
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