アイリーン 第三章 -エミリア-

12.ひとり

 
調理というものがこんなに難しいなんて初めて知った。
調理の仕方はおろか、包丁の握り方さえ危うい俺は、開始3分で皿洗いに回された。
今のところ俺の役目は、お皿を洗うこと、食材を洗いながら名前を覚えること、セオさんが作る料理を見て名前を覚えること、これだけだ。
洗って、覚える。
なんとも単純な作業だ。

「初めからできるなら誰も苦労なんかしねぇ」

セオさんは俺が皿洗いをしているのをちらりと見て、また手元に視線を戻した。
トントンと野菜を刻む音が俺の耳に入る。

「ゆっくりやればいいんだ。簡単なことから順に」

ほらと言って俺に卵を差し出す。
それをボウルに割り入れる。

「ほら、うまくなったじゃねぇか」

初めは、卵を綺麗に割るのも難しかった。
どうしても黄身がつぶれたり、殻が混じってしまったり…。
確かに、これだけでも進歩したものだ。

「…うまくなるかな」
「なるさ。俺が言うんだ。間違いねぇ」

難しい顔のままそう言ったセオさんに思わず笑いを漏らした。
そんな俺を見て、彼も僅かな笑みを漏らす。
…それが初めて見た笑みだった。

包丁の使い方、果物の皮むき、上達する度にみんなが誉めてくれる。
こんなこと初めてで、すごく嬉しかった。
誉められるなんて経験がまずあまりないから。
それに、何もできなかったのに色々なことが身に付いていく。
些細なことでも俺にとっては新鮮で、楽しかった。

そうやって幾日も過ぎて、お客さんとも馴染みが出てくる。
カインも時間が合うときは食べに来てくれた。
2人で食べに来るときもあった。
カインを初めて店に連れてきたとき、弟だと行ったらみんな驚いていた。
確かに全然似てないし、血も繋がってないから。

「あ、このスープおいしい」
「俺が作ったんだよ!」

スープぐらいなら作れるようになった。
ダシを上手にとれるようになって誉められるようになった。
新しいことばかりで、しばらくは楽しかった。
…忙しくて、感傷に浸る暇もなかった。

そうやって1ヶ月があっという間に過ぎた頃、夜カインが遅くなるときに家で1人帰りを待つことが増えた。
…1人で所在なく時間を潰すことになって初めて気付いた。

ああ、俺はまだあの青い目が忘れられない。
ふと思い出すあの優しい笑み。
俺を呼ぶ声。

「ただいま」
「あっ、おかえり」

ドアが開いてカインが帰ってきたことに気付く。
目があった瞬間、カインの顔が不審気に歪む。

「……どうした?」
「え……?」
「泣いてるだろ」

はっとして頬を触ると確かに濡れていた。
それに気付くと、わけもなくまた涙が溢れた。

「ウィル……?」
「ごめんっ…なんでもないんだ」

カインはそれ以上何も言わなかった。
俺もなんでもないと言い続けた。
でも、本当は……

「ウィル……」

“アイリーン”

俺を呼ぶ声が脳裏に響く。
あんなに違和感を覚えていたのに、今はその名を呼んでほしくなる。
俺を呼ぶ懐かしい声。
無性にその声に会いたかった。



 

 
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