アイリーン 第三章 -エミリア-

18.逃走劇

翌朝、目を覚ますと辺りは静かで、部屋を出ると今に置き書きがしてあった。どうやらカインはすでに学校に向かったみたいで、達筆な文字で戸締りを忘れないようにと書かれていた。
テーブルの上を見ると、パンに焼いた鳥と卵、野菜が挟まれた簡単なサンドが置いてあった。
「いただきます…」
パンは買ってきたものだろうけれど、サンドを作ったのはカインだろう。カインはとても器用だ。俺が作るよりカインが作った料理の方がおいしいけれど、カインは絶対にそんなそぶりを見せない。まだ料理に慣れていなくて、卵を焦がしてしまったときだって、何の文句も言わずに全部食べてくれた。

カインは俺のことをすごく労わってくれる。幼い頃からの不遇を知っているせいか、どんなときだって俺には無条件に優しい。だから、…だから、俺はカインを裏切ることができないのだ。無条件に差し伸べてくれる手を、心の弱い俺には手放すことができない。
イーグルだって今は俺のことを探しに来てくれたのかもしれない。あの底知れない海のような瞳が、俺に向かって熱く光るのを知っている。思い出すだけで、心のいちばん深いところを鷲掴みにされたような気持ちになる。でも、イーグルだって、その瞳をいつか俺に向けなくなるときがくるかもしれない。いつかあの奇麗な青を、俺の全然知らない女の子に向けるようになるかもしれない。あの俺の心を揺さぶる声で、俺とは違う誰かに甘い言葉を囁くようになるのだろう。
そう考えると…、怖くなる。いつか俺が離れられなくなった時に、あっさり見放されてしまったら?俺は実の親にだって捨てられた人間だ。いつ愛想を尽かされてもおかしくない。そうなったとき俺は、一人で生きていくことができるのだろうか。寂しさに耐えることができるのだろうか。今だって、自分から切り離したつもりでもこんなに苦しいのに…。
カインは、俺を見捨てない。それは、カインが俺のことをよく知っているように、俺だって幼い頃からカインを見てきているからわかる。カインは俺の弟だ。血は繋がっていなくても、俺にとっては本物の家族より大切な家族だ。だから、俺は卑怯にもカインの気持ちにこたえることができない。カインを兄弟として以外に見てしまったら、たちまちに俺はまた孤独に怯えないといけなくなってしまう。いつ見離されるか、不安でたまらなくなる。

食べていた手を止めて、ぼんやりとしていたことに気付く。静かな部屋の中、いつもとそう変わらない朝なのに、ひどく孤独に感じる。だから、休みの日は嫌いだ。一人でいると、いらないことばかり考えてしまう。俺が立ちあがると、ガタンとイスが音をたてた。何かしないと落ち着かない。本を読もうか。
そそくさと食器を片づけて、洗い物まで済ませてしまう。自分の分だけだとすぐに済んでしまうから、そんなことで気を紛らわすこともできない。自分の部屋に戻って何か本を探すけれど、どれも読んだことのあるものばかりだ。一応手にとっては見るけれど、一度読んでしまったせいかあまりおもしろいと感じない。カインの本を失敬しても、どうも趣味が違うのかいまいちのめり込むことができない。
「そうだ、料理の練習をしよう」
今日はカインのために晩ご飯を作るんだ。どうせならあっと驚くほど豪華なものを作ればいい。作れるメニューは少ないけれど、仕込みから丁寧にやれば、おいしいものが作れるかもしれない。
名案だと急いでキッチンへ向かう。ダイニング横の小さな厨房。鍋を取り出して、何を煮込もうかと思案する。材料は何があったっけ。食糧庫にしている奥行きの深い棚を開ける。見ると葉野菜ばかりで、干物も穀物もない。
明らかに足りない材料に落胆する。電気は通っているけれど、普段店でご飯を食べることが多いから、基本的に使わないので冷蔵庫は置いていない。となると、生肉や魚などの生鮮食品を置いておくこともできない。卵はなんとか常温で一つ二つ保存しているものの、卵と野菜だけじゃできるものも限られてくる。
「そうだ!買いに行けば…」
しばらく歩かないといけないが、店でも贔屓にしている魚屋さんやお肉屋さんがある。前にセオさんと買い物に行ったとき、魚の調理の仕方やお肉の下ごしらえの仕方など、料理の基本を教わった。
買いに行けばいいと思いついて、ふと困ったことに気付く。鍵もあるし、お金もある程度所持はしているけれど、カインには「留守番をしている」と言ったんだっけ。まだ午後にもなっていないし、少し遠いけれど、長い時間買い物をしたって、カインが帰ってくるまでには料理に取り掛かれるとは思う。でも、カインは「留守番よろしく」と念を押していたっけ。つまりは“出歩くな”ってことだと思うのだけれど、…どうしよう。
でも、このまま本を読んで時間を潰したって、身が入らないことも分かっているし、カインが帰ってきてから買い物に出てたんじゃ、閉まってしまう店だってあるかもしれない。
カインが帰ってくるまでに料理ができていれば問題ないよね。驚かせたいし。
もうそれ以上の名案は思いつかない。決心して小さな財布を握る。カインが俺にと言って用意してくれた麻布の小さい袋。三つ折りになっていて、袋に蓋もあるし、小銭も紙幣も入る。鍵も小銭と一緒に入れて、椅子に掛けてあった薄手の上着を羽織る。
靴を履いて、部屋の電気を消して鍵を掛ける。一度鍵が掛かっているかノブを引いて確かめた。ちゃんとかかっていることを確認して、階段を降りる。カンカン、と安っぽい鉄の響く音がする。
階段を下りて上を見上げると、なかなかにいい天気だ。雲ひとつない、とまではいかないけれど、空には太陽がさんさんと照っている。風は穏やかで、頬を撫でるようにそよいで心地いい。
これなら散歩がてら少しくらい遠出するのもいいかもしれない。いい気分転換になりそうだ。

なだらかな砂利道を、街に向かって歩く。周りの景色も少しずつ店が増えて行って、しばらくすれば商店街に出た。庶民的な雰囲気はあるが、店が立ち並び活気の溢れる一帯だ。
生鮮食品は最後にするとして、干物や穀物など比較的日持ちのするものを探す。途中で人の良さそうなおじさんに声を掛けられて、今が旬だというナントカいう長い名前の魚の干物を買った。あと主食になる米と、根野菜。出汁に使えると言われて買った煮干し。片手が埋まったところで、生鮮食品を覗きに向かう。
鼻歌を無意識に歌うぐらい、そのときは気分もすっかり晴れていて、悩んでいたことなんてきれいさっぱり忘れていた。いや、忘れていたのがいけないとは思うのだけれど。

「アイリーン!」

後ろから掛けられた声に、思わず足が止まる。手荷物を取り落とさなかったことが不思議なくらい驚いて、動けずその場でただ固まっていた。振り向くこともできなかったが、声だけで間違うことはない。俺が聞き間違えるはずないんだ、あの声を。俺のことをその名で呼ぶのは、間違いなく…

考えるよりも先に体が動いていた。荷物を抱え直して足が勝手に走り出す。“逃げなきゃ”。ただそれだけしか頭の中には無かった。振り返るわけにはいかない。
ちょうど間昼も過ぎて市場は賑わい出してきた時間。走るのには困難な人通りだったけれど、身を紛らわすには最適だ。あっちへこっちへと無作為に建物の影を曲がる。
すれ違う人が俺の焦った顔に驚いてこちらを見るのが分かる。ときどきぶつかって怒鳴られたこともあったけれど、頭を下げても止まるわけにはいかなかった。俺の異常な様子に、その人が追っかけてくることは無かったけれど、その人の怒鳴り声に自分の所在がばれてしまうのではないかと、次からは人に当たらないように少しスピードを落として駆け足で走った。
荷物を抱えているせいで、息がだんだんと切れてくる。人もまばらになってきた辺りで、走る足を緩めた。それでも早足で歩きながら、そっと後ろを振り返る。俺を追ってくる姿は無い。なんとか撒けたようだ。切れた息を整えながら、今度は辺りを見回す。市場から大分はずれたのは分かったが、今ここがどこだか見当もつかない。知らない場所に出てきてしまったようだ。家に帰るには、今来た道を戻るのが最適だ。
でも、戻れば会う可能性も高くなる。俺を後ろから読んだ声は、確実に俺の姿をとらえていたに違いない。俺が逃げたことによって、逃げたのが俺本人だと肯定しているようなものだ。逃げた俺を追って探しているだろう。

抱えていた荷物を降ろして片手に持ち替える。雑に抱えていたせいか、紙の袋はずいぶんとよれていた。
とりあえず、大回りになるかもしれないが、知っている所まで戻るしかない。来た方角は大体分かっているから、来た道を少しはずしてそっちへ向かおう。
きょろきょろと回りを確かめながら迂回しつつ道を戻る。もう一度袋を抱え直して、いつでも走れる体制をとる。袋の中身はぐちゃぐちゃになっているかもしれないけれど、構っていられなかった。これではもう肉や魚を買うのは諦めるしかない。

これなら大人しく家にいるんだった。まだ家でくさっている方が、ましだったかもしれない。
先ほどの声が頭から離れない。数日前から俺の心を存分に掻き乱してくれる。
とにかく家に帰ってしまえば良い。家に帰って、あとは大人しくカインの帰りを待つんだ。
言い知れない気持ちを抱えたまま、俺は家路を急いだ。



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