アイリーン 第三章 -エミリア-

19.愛して

人通りが徐々に増えてくれるにつれ、知った景色が戻ってくる。迷子にならなくて済んだとほっと息をつきながら、未だに警戒を解けないでいた。
辺りを確かめながら先を急ぐけれど、イーグルの姿は見えない。もしかしたら諦めて去ったのかもしれない。でも、この街を出たわけではないだろう。まだこの辺りにいるかもしれない。
人が増えてくると、周りを確かめてばかりもいられない。またぶつかって絡まれたりしたら大変だ。とにかく窺える範囲で辺りを気にするしかない。

「おや、ウィル。珍しいじゃないか」
八百屋のおばさんが声を掛けてくる。この店はニナさんの行きつけで、よく買い出しにも来ていたので、俺もこのおばさんとは顔見知りだった。
俺はおばさんに顔を向けると、曖昧に微笑んだ。今は周りが気になって、うまく返すことができない。そんな俺におばさんも怪訝な視線を向ける。
「どうしたんだい。ずいぶんと冴えない顔をして」
そんなにひどい顔をしているのだろうか。無意識のうちに動揺が出てしまっているのかもしれない。
「ちょっと、先を急いでいて…」
「おや、そう。何か用事でもあるのかい?そんなに急ぐのでなければ何かあげようと思うんだけどねぇ」
このおばさんは、よく店に出せない奇形の野菜を譲ってくれる。それはすごくありがたいので、いつも遠慮なく頂戴している。
「すみません。うれしいですけど本当にちょっと急いでいて」
こうやって少し足を止めているだけでも周りが気になる。見つかるといけないという焦りが俺を駆りたてる。
「ああ、じゃあまたいつでも取りにおいで」
「本当にありがとうございます。また、来ます」
挨拶もそこそこに失礼だとは思いながらすぐにその場を去った。再び足を速めながら、道を何本か曲がった。

もう見知った場所まで戻ってきた。あとちょっとすれば市場を出る。それからはほぼ一本道で、駆け足で戻ればすぐに家に着く。
あと少しで市場を出るというところで、右に曲がった瞬間誰かとぶつかった。ドンっとそう強くない力で押し返されつように後ろに2,3歩よろめく。
「す、すみません」
あれだけ人にぶつからないように気をつけていたのに、出会い頭ではどうしようもない。
とりあえず謝らなければと顔を上げる。
「っ!!」
「あ、おいっ!!」
顔を上げた先には見知った金の髪が見えて、目が合う前に慌てて踵を返す。
「ちょっ、アイリーンっ!!」
全力疾走で駆けだしたけれど、距離が近すぎたらしい。瞬時に腕を掴まれる。
「やっ、放して!」
ドサリ、と荷物が地面に落ちた。それに構わず腕を振り回した。すぐにもう一方の腕も強く掴まれた。強い力で拘束され、振りほどけない。下を向いていやいやをするように首を振った。
「お願い、放してっ」
「いやだ」
俺が振りほどこうとするのに構わず腕を引き寄せる。その強い力に逆らえず、俺の体は自然と前のめりになった。ぽすん、と体が厚い胸板に押し付けられ、そのまま放さないというようにぎゅっと抱きしめられる。押しつけられた顔に体が密着し、知った香りが俺を包んだ。
「イーグルっ」
「どうして逃げる?」
「は、放して!」
「逃げないと約束したらね。そう簡単に放すわけはないけど」
言いながらより一層強く俺を抱き締める。ぎゅっと押しつけられた体が熱い。イーグルの吐息が上から掛かり、そこで息を切らしていることにようやく気がついた。やはり、俺をずっと探していたんだ。考えちゃいけないのに、そう思うと急に抵抗する力が萎えてくる。
「逃がすわけがないだろう。ようやく、…ようやく、捕まえたのに。放せるわけがないだろう」
変わらない、俺の心を揺るがす声。囁かれるだけで、痺れて動けなくなる。
「おねがっ、ね、イーグル」
「どんなに懇願されても、無理。泣き喚いて嫌がったって、無理だから」
このまま連れていく、と耳に囁いて、俺が怯んだ隙にそのまま俺を担ぎあげた。俺が悲鳴を上げても、イーグルは容赦しなかった。いやだいやだとわけもわからないまま喚いていたけれど、イーグルは解放しようとしない。
担がれたまま連れて行かれて、建物の影になったところでようやく降ろされた。俺が喚いていたから周りの人はこちらを見ていたけれど、しばらくすると何事もなかったかのように止めていた足を戻してみんなその場から去っていった。腕を掴まれたまま、人が行き過ぎるのを待つ。
「どうして、どうしてこんなことするの」
「こんなこと?」
「俺はちゃんとさよならしたつもりだったのに、どうしてまた俺の前に現れたんだ」
イーグルが俺をじっと見ているのが分かる。なんでも見透かすかのようなあの青が怖い。俺は顔を伏せたまま、ぼそぼそと口を開いた。
「さよなら?俺と一生会わないつもりでいたの」
俺は答えなかった。沈黙が肯定だって分かっているから。イーグルは俺が答えないのを見て、掴んでいた手を壁に押し当てた。そう強くは力を入れていないみたいなのに、俺の腕はぴくりとも動かない。
「顔を上げて」
「いやだ」
「ふぅん。上げないなら、キスするよ?」
イーグルの言葉に熱がさっと顔に上る。
「……残念。時間切れ」
顔を上げないまま、イーグルが下から掬うように唇を押しあててくる。キスをしながら、唇で、舌で、上を向くよう促される。手を添えて顎を持ち上げられると、もう逆らえる気はしなかった。
「んっ、ふ、はっ」
貪るように降る口付けに、まともに息も継げない。漏れ出る声が羞恥を煽り、俺の体を一層熱くする。
アイリーン、と何度もキスの合間に甘く囁かれる。優しく甘く呼ぶ声とは裏腹に、キスは容赦なく激しさを増す。
「ん、も、ダメ」
「だめ。止まらない」
間近で見上げたその表情は、苦しげに歪められていて、掠れた声が切なく、甘い。熱い体温がどちらのものとも判断がつかないほどの距離で、見つめ合い、額を寄せる。一瞬も逃がしはしないという強い意志を見せて、イーグルが俺を見つめる。
「会いたかった」
距離が近すぎて、言葉を放つだけで唇が触れ合う。甘い吐息に酔いしれ、体の奥から熱く疼く。
「だめ、ん、…んんっ、ぁ、ふ、ぅん」
いやだと何度も繰り返しながら、全く抗える気がしない。イーグルの抑える力だってそれほど強くはないと分かるのに、それを振りほどく気力さえ俺には残っていなかった。
絡まる舌が、ぴちゃりと水音を立てる。甘く下唇を食まれ、知らず体が震える。いつの間にか放されていた手は、無意識にイーグルの服の裾をつかむ。彼の熱い大きな手が、俺の後頭部を捉える。首の裏に指が這って、せがむように首を反らした。啄ばむように繰り返す口付けは、時折深く激しくなり、侵入してきた舌によって、息さえ奪うように吸って、絡めとられる。
「は、イーグル、ぁは、…ふ」
呼吸もままならず、唇が離れた隙間に短く息を吸うのがやっとだ。くず折れる感覚に、がくりと腰が落ちる瞬間、背を支えていたイーグルの手が腰に回る。服にしがみつく手にも力が入らない。甘い痺れに頭の中はもうドロドロで、何にも考えられない。
「アイリーン…」
薄らと目を開けて前を見ると間近に青い瞳があって、それを見るだけでぞくりと体の奥から震えが来る。
あんなにも焦がれた姿がここにあって、あんなにもいけないと戒めたはずなのに、俺はもうこの腕の中から抜け出す気なんて起きなくなっている。今この瞬間もまだカインのことを忘れたわけじゃないのに、俺の意識は今目の前にいるこの人に全て注がれていた。
「だめ、だよ…」
「どうして」
口先だけで抵抗する俺を、鋭い視線が突き刺す。俺の心を見透かすように、じっと見つめて逸らさない。どうしてだなんて、イーグルはきっとわかっているのだ。カインのことも、俺の心の弱さも。
「お願いだから、俺を選んで。ねぇ。気が狂いそうなんだ」
ぎゅっと俺を腕の中に閉じ込めて、上から降る声は切なく、甘い。俺を抱きしめるイーグルの腕が、…震えている。
「もし君が望むなら、解放しようと思った。今事を急いても変わらないと思ったから。しばらく離れて、俺も冷静になろうと思った。ゆっくり考えたら、強引に奪うんじゃなくて、もっとゆっくり……受け入れてもらえるように何かできるかもしれないと思ったから」
でも無理だった、とイーグルが続ける。はぁっと吐き出された息が熱く、俺の首筋にかかる。思わず身体が震えて、イーグルがさらに俺をきつく抱きしめた。
「1週間、1か月、…どんどんと時が経つうちに、だんだんと耐えられなくなるんだ。四六時中アイリーンのことが頭から離れなくて、いくら時間が経っても、一向に頭の熱が冷めない。そればかりか、逆にひどくなるんだ。前に見たのは、触れたのは、いつ頃だったか。キスをしたのは?声を聞いたのは?感触がだんだんと失われていくのが、すごく怖かった」
だんだんと、腕の力が強くなる。俺は息苦しくなったが、それよりももっと、イーグルの方がつらそうに見えた。それくらい、彼の声は真に迫って聞こえたから。
「俺のほかに、誰かがアイリーンに触れて、アイリーンが誰かに微笑みかける。それを想像しただけでぞっとした。いつか俺のことなんか忘れてしまうんだと思ったら、いてもたってもいられなくなった」
腕が不意に緩んで、もう一度顔を固定されてキスを受けた。舌がすぐに歯列を割って入り、俺の舌を絡め取る。熱く絡むそれに、無意識にまた身体が震え、甘えた声が出る。唇が離れて、すぐ間近に顔が迫った距離で、二人で熱い息を吐いた。
「もう、どこにも行かせたくない。誰にも触れさせたくない。俺以外の男の目に晒されるのだって嫌だ」
狂気だ。薄らと熱を持ってうるんだ瞳は、いつもより濃い青。深い海のようなその瞳は、俺を飲み込もうとしているかのようで。
「俺、は」
「お願いだから、嫌だなんて言わないで」
言葉はすぐに遮られる。大の大人が懇願する様は、本来ならば滑稽なんだろうけれど、俺の目の前にいる人に対してはどうしてもそうは思えなかった。
狂気だと思うのに、それでもなお愛しいと感じてしまう自分がいる。
「絶対、俺を見捨てない?」
俺が言った言葉に、イーグルが目を見開く。
「俺がどんなに嫌な子でも、絶対に俺を捨てないって言える?」
母さんみたいに。俺をいらない子だなんて、言わない?
「俺がどんな子でも、どんなに仕様のない子でも」
「言わないよ。絶対に」
俺を見つめる目は揺るがない。
「ああ、アイリーン」
切なげに眉を寄せて、顔を近づける。その表情はやけに艶めいて、目が合うだけで体温が上昇する。
唇が触れる。優しくなぞるだけのキス。指の背でそのキスの後を柔らかに拭って、そのまま頬を撫で上げられる。指が頬を這う感触に、ぞくりと肌が粟立つ。でもそれは決して不快なものではなくて、下腹がキュンと鳴るような感覚で。
「閉じ込めておきたい。このままずうっと放さないで、ずっとずっと可愛がるから」
指が首筋を撫でる。ぞくぞくと熱い気が背中を駆け上がる。
「誰の目も届かないところに閉じ込めて、めちゃくちゃに愛したい」
いいよね―…。
甘く艶を含んだ声で誘惑する。甘い蜜に頭の中はドロドロに溶かされて、もう何も考えられない。
あんなに、近づいてはいけないと、甘えてはいけないと思っていたはずなのに、縋りたくなる。
俺を愛して。好きだと言って。めちゃくちゃに、壊れるくらいに、抱きしめて、愛して、可愛がって……。
「ねぇ、その目、ぞくぞくする」
イーグルが妖艶な笑みを見せる。触れるほどに唇を寄せて、掠れた声で囁く。
「誘ってるの?」
「…ん、」
俺が言うより早く、唇を塞がれた。上がる息が口付けの合間に漏れ、はしたない声が出る。でも羞恥なんか感じるほど余裕はなくって、貪るように降る口付けに夢中になって応えていた。
「…愛してる」

抗いようのない熱に苛まれるように、俺の意識はブラックアウトした。


 

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