嘘つきな彼女
10.戸惑う彼女
電話が鳴った。
2度、3度、コールが長引いて、途中で留守番電話に切り替わる。
表示を見ずに電源を落として、枕の下に押し入れた。その上に顔を埋め、ぎゅっと硬く目をつぶる。
今更何だって言うの。
もうこれ以上、自分を殺して流されるままになんて、なれそうにもなかった。
本当は今までだって嫌だった。わたしを抱いた手で、他の女に触れているかと思うと、潰れそうなくらい胸が痛かった。
甘く蕩けるようなキスを受けながら、この唇で他の誰かに触れたのだろうと靄がかかった頭で考えていた。
朝、目が覚めて、隣で無垢な顔をして眠る綺麗な顔を眺めて、次はいつこの顔を見れるのかと思った。
温かい腕に包まれて、他の人がこの温もりを感じるのかと悲しくなって泣いた。
今はもう、あの意地悪な物言いだって、思い出すだけでわたしの心を苦しめる。
普段人前では紳士的なのに、わたしの前では驚くほど傍若無人。そんな二面性が大嫌いだったのに、いつの間にかそれを自分にしか見せてくれないと思うと嬉しくなっていた。
あの意地悪な笑顔が大嫌いだったのに、
いつからこんなに好きになっていたのだろう。
ただ、抱かれるだけで、恋人のような甘い関係ではなかったのに。
キスをするたび、会社とは違う優しい笑顔を見るたび、どんどん引きこまれている自分がいて、それをずっと認めようとはしなかった。
認めたくなかった。「好き」の一言もないこの関係で、自分だけが彼に溺れているだなんて。自分が釣り合わないと知っていたから。
食堂で小野寺さんを見て、あの腕に絡んでいるのが自分だったら、と思った。
わたしでは有り得ない、あの隣にいるのは、わたしでは…有り得ない。
だって、会社ではちゃんと笑ってくれない。ちゃんと触れてくれない。「美亜」って、あの甘い声で呼んでくれない。
だって、会社で何もなかったように振舞うのは、やっぱりわたしとは“そういう関係”でしかないからでしょ?小野寺さんを拒否しないのは、彼女とわたしは違うからでしょ?
自分から関わりたくないと望んでいたはずなのに、わたしの中は今まで言っていた言葉とは逆の気持ちばかりで。
いつから、こんなに夢を見るようになったのか。傍にいたい、好きだって言ってほしい、恋人になりたい、…どれも無意識に否定し続けてきたものばかりで。
ピリリリリ、と無機質な音が耳に響く。幻聴だ。だって、さっき電源を落としたもの。先程電源を落としたのは、もうこれ以上聞き続けていたら、間違いなく今までと同じように流されるのが分かっていたから。電話を取ってしまったら、あの声を聞いてしまったら、もうわたしはダメになる。
それでも3回のコールまで聞き続けたのは、自分が求められているような錯覚に陥ったから。もしかして、ずっと電話が鳴っているのは、わたしを求めているからじゃないかと。
ピンポン、と妙に明るいインターホンの音が鳴る。
あれ、今度は幻聴じゃない。
まさかと思って顔を上げてみるけれど、ここは寝室で、モニターはリビングに出ないとない。ここからじゃ見えない。重い頭を上げて、そのまましばらく固まっていた。
またピンポン、と部屋に響き渡る。
何も考えられない頭のまま、半分疑りながらベッドを抜け出る。ガチャリと寝室のドアを開けて見えたモニターの先には、確かに来客の姿があって。
「……っ!」
わたしの部屋の呼び鈴を押す、スーツの男の人なんか一人しかいるはずがなくて。
その姿を見た途端、じわりと視界が潤む。モニター越しに見た姿に、どうしても会いたくて仕方がなくなる。
でも、でも…
「帰って」
インターホン越しに一方的に告げて、プツリとモニターの画面を切る。もう、彼が防犯カメラに映ろうとどうでもいい。噂になろうが、わたしには関係ない。もう、彼はわたしの相手じゃないんだもの。
もうそれ以上、呼び鈴は鳴らなかった。その事実に身勝手に寂しさを感じる。
どうして諦めて帰ってしまうの。勝手な想いばかりが胸中を占める。
気付かなければ良かったのに。
こんな思いなんて知らなければ、割り切って抱かれることも平気だったのに。
いま、あの腕に抱かれてもきっと虚しさしか残らない。悲しくて、おかしくなりそう。
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