嘘つきな彼女

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  12.弱り果てた彼女  

熱い。
最初は本当にコーヒーのせいだと思っていた。猫舌なのに、調子に乗って熱いのを飲みすぎたかな、なんて。
社内は広いフロアを温めるためにきつめに暖房を入れている。それのせいもあるのかもしれない。
普段、どちらかと言えば寒がりで、熱いのは平気な方だ。特に寒い時期に温かいところにいるのが好きで、自分の部屋でもきつめに暖房を点けたりする。
それが今日は、妙に熱い。熱でもあるみたいだ。

そう気付いた時には遅かった。

「桐島さん!」
ぐらりと身体が揺れていた。何度か体験したことがあるけれど、お風呂でのぼせたときみたいな感覚。眩暈がして、立ち上がれない。

総務長に判子をもらって、書類を届ける前だった。外からもどってきた営業さんに偶々捕まって、急な来客だからお茶を淹れてほしいと言われたのだ。
幸いなことにその人は警戒していた人物ではなく、彼と同期でツートップを争う人気の松永主任だった。
「桐島さんがお茶を淹れるの上手だって聞いたからさ、ぜひお願いしたいんだよ」
偶々居合わせたというのが一番の理由だろうけれど、言われて悪い気はしなかった。その噂がどこから出たかなんて考えたくなかったけど。
わかりました、と頷いて、給湯室に入ったことは覚えている。暖房のきいた室内から、普段エアコンの入れない給湯室に来たせいか、急な温度差の変化にぞくりとした。
お湯を淹れようと浄水器に手を伸ばす。視界がだんだんと霞んでいく。痺れたように手足の感覚が鈍っていく。周りの音がだんだんと聞こえなくなっていって、もう、立てる気がしなかった。
耐えられなくなって、その場にしゃがみ込む。
吐きそう。三半規管が狂っているのか、目を閉じていてもぐるぐると視界が回る感じがする。
「桐島さん!大丈夫!?」
当然と言うのか、最初に気付いたのは松永主任だった。お茶の人数を聞き忘れていたことを霞む意識の端で思い出した。
「すみませ…」
「しゃべらなくていいよ。医務室に行こう」
気持ち悪くて、何かを考えるのも嫌だった。動けない。
そんなわたしの様子を察知したのか、松永さんが誰ともなく「わかった」と呟いたのが聞こえた。聞こえても、動く気はおきないのだけれど。
「ちょっと我慢して」
ひょい、と持ち上げられる感覚。浮遊感が気持ち悪かったけれど、抵抗する元気もなかった。
横抱きにして抱えあげられているのに、それに構う余裕もない。羞恥や気遣いは全部飛んで、大人しくされるままになって運ばれる。

それからどれくらい経ったのかは分からないけれど、いつの間にか医務室の簡易ベッドに寝かされていた。小さなビルとは言え、何フロアも貸し切るような企業なので、医務室くらいはあった。常駐の医者はいない。健康診断のときに決まった医者が来るくらいで、今日も当然お医者様はいなかった。
「貧血かな、と思うんだけど」
「はい、わたしもそう思います」
「病院は、どうする?もうちょっと横になってて、治らないようなら行こうか」
「はい」
答えられるくらい眩暈がマシになった頃、松永さんに問い掛けられた。お客さんがあったはずなのに、彼はずっと様子を見ていてくれたようだ。
「すみません、付き添っていただいて。お仕事の方は…」
「ああ、来客の方には断りを入れてきたから大丈夫だよ。先方さんも、急病人の君を心配してらしたくらいだから、問題ないよ」
心配しないで、と言って子供のように頭を撫でられた。あやすような仕草に、なんだかほっとする。
ダメだ。随分弱っているみたいだ。人の体温にほっとする。
そう親しくないのに、松永さんは随分と気を使ってくれている。もしかすると、自分が仕事を頼んだから気にしてくれているのかもしれない。
「まだ顔色悪いね。どう、まだしんどい?」
「いえ、さっきより大分まし…」
ぺたり、と額に大きな手が触れる。冷たいのが気持ちよくて、思わず目を閉じた。
「無防備、だね。気をつけなきゃだめだよ…」
くしゃりと髪を撫ぜられる感触。それすら気持ち良いものに感じられて、言われた意味の半分も理解できなかった。
あれ、そういや視界が弱い。ぼんやりする。でも、これは眩暈のせいなんかじゃなくて…。
「眼鏡、サイドにおいてるからね」
ああ、眼鏡がないせいなんだ。普段そんなに目が悪いわけじゃないから、コンタクトを使用したことがない。いつも眼鏡着用で、はずしたことがない。外ではずすなんて、したことがないんじゃないかな。
「あいつが隠したくなるのも分かるな」
あいつ、という言葉の指す人物を悟って、胸が苦しくなる。あの人のことを考えるだけで、苦しい。
「その顔もダメ」
松永さんがわたしの顔を掌で隠す。どんな顔をしているんだろう。視界がぼやけているから、松永さんがどんな顔をしたのかもわからなかった。わたし、そんなにヒドイ顔してた?
「松永さん、わたし」
「桐島さんはこのままでいいの?アイツがいいの?」
「…なんの、ことか」
「俺が、助けになろうか?」

「松永」

突然外野から聞こえた声に、びくりと身体が反応する。重い頭の中で、確実にその声を捉える。
「お帰り」
「松永、交代」
声と気配が近づいてきて、朧気ながらもついにその姿が目に入った。こんなに視界が弱まっていても、絶対に間違えたりしない。
「なんで交代?」
「なんでも」
「本当、桐島さんよくこんな横暴な奴に耐えてるよね」
は、と松永さんが短く笑った。その笑みは馬鹿にしているようで、でもどこか親しげな笑みで。松永さんの井関さんに対する態度とか言葉に、驚いて二人を交互に見比べていた。井関さんも、普段の紳士的な外面を取っ払って、不機嫌な顔を隠しもしない。
ぼんやりとした視界の中だから、そう見えているだけなのだろうか。
「しょうがないな。今回は井関に譲るよ。じゃあね、桐島さん。お大事に」
もういちどぽんぽんと軽く頭に触れて、松永さんが去っていった。
去り際にこちらに一瞥をくれた気がしたけれど、彼は何も言わなかった。

そうして医務室には、不機嫌な顔をした井関さんが残った。

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