嘘つきな彼女
6.疑う男
美亜の部屋に初めて訪れたのは、彼女を何度か抱いた後だった。
彼女との数回のデートは初めての時のように食事を取って、ホテルに強引に誘う。あまり表情で見せないが強引に迫られるとどうやら弱いようで、大体は断られない。
まず、あまり断るすきは与えないけれど。
「桐島さんは確かに優秀だね。あの子は頭の回転が速い」
営業2課の部長と飲んでいるときだった。部長が美亜を気に入っているのは以前の社内での飲み会でちらりと聞いてはいたが、こんなに他人の仕事ぶりを褒めている部長は初めて見た。
確かに美亜は良く気が付く。目立って優秀と言うわけではないが、ちょっとした気遣いや書類の処理スピードはベテランに引けを取らない。総務課は年齢層がそう若くないので、美亜はその中では比較的若い方だ。営業課のフロアが近いせいか、よく何かと仕事で駆り出されている。
お茶くみなんかが良い例だ。あんなこと、誰にでもできる仕事だが、美亜のお茶の入れ方は絶品で、確かに誰もが称賛していた。
他にも、経費を落とす時もどんなぎりぎりでも掛け合ってくれるし、書類の不備が少ない。ちょっとしたことだが、部長はさすがよく見ている。二人で飲んでいる間も、何度も美亜を褒めていた。
「桐島さんの家は近所なんだよ。以前娘のように思っていらない心配までしてしまったこともあってね」
部長の家と言えば、今飲んでいる場所から一駅の距離しかない。帰りにタクシーで帰れるようにだろうが、送った帰りに俺もタクシーで帰れるほど、俺の家は近くない。この時間帯だと、なかなかの金額が付く。でも、その心配ももしかするとしなくていいかもしれない。
「部長、じゃあそろそろ…」
「ああ、そうだな。遅くまで付き合わせて悪かったね」
口調はしっかりしているが、年のせいかなかなか酔いが回った様子。これはとりあえず家までタクシーで乗せて帰って、そのまま家に放り込ませていただこう。
シートに落ち着いて舟を漕ぎかけている部長をなんとか宥めすかし自宅を聞き出す。
「部長、着きましたよ」
「ん?ああ、…」
担ぐようにして社内から下ろす。運転手にお金を渡して、そのまま帰した。
「桐島さんはこの近所なんですか?」
「…ん?」
「私の友人もこの近所に住んでいましてね。案外近くだったりするのかなぁ」
「ああ、桐島さんならこの先の公園を曲がったところのマンションだったはずだよ」
上機嫌んでいとも簡単に彼女の家を教えてくれる。大体の場所は分かったところで、部長は奥さんに引き渡し、挨拶をしてその場を後にする。「どうやって帰るの?」と聞かれたけれど、そこは男の良いところで、「適当にタクシーを拾います」と告げるとそう心配されることもない。
部長が先程指した先の公園を目指しながら、携帯片手にダイヤルを押す。
何度か呼び出し音の鳴った後、プツリと線が繋がる音がした。「はい」と短く出た彼女の声には、喜色も愛想もない。
「相変わらず素っ気ないな」
『どうしたんですか、いきなり』
俺の苦笑に彼女の警戒が少し和らいだ気がした。
「いや、お前確か住んでるの部長の家の近くだったよなと思って」と白々しく告げる。
『はあ、そんなことわたし言いましたっけ』
お前から聞いたわけじゃない、と言いそうになるのを堪える。
「部長がやたらお前のこと気に入ってるみたいで、家が近くだって本人が言ってたから」
『はあ…。なぜそんな会話に』
「ああ、部長と飲んでたからな」
『はあ…』
相変わらずの鈍い返事。俺が何を言いたいか、何をたくらんでいるか良く分かっていない様子だ。あれだけされても警戒しないのは、俺に少しは気を許しているからだと思いたい。
「いま部長送ってきたところなんだけど、もうここじゃ終電ないよな」
またも白々しい言い方。このあたりの電車がもうないのは既に分かっている。
『ですね。ご愁傷様です』
お前がな。悪いな、美亜。
「いや、仕方ないからお前んち行くわ」
仕方ないなんて横暴に言い捨てて、ほとんど中りをつけていたマンションの前で立ち止まる。恐らくこれだろう。そう新しくはないが、そこそこ綺麗なマンションだ。
「ああ…これか。確かこんな仰々しい名前だったな。部屋、203だっけ、開けろ」
『はっ、ああ!?』
「ほら」
電話先で俺が押した後にインターフォンの音が聞こえた。
『あ、開けませんよ』
電話口で焦り出した声。今すぐにでもその焦った顔を見たい。早く、ここを突破したい。
「ああ、防犯カメラまで一丁前にあるじゃねぇか。オイ、これに映って問題なったら困んのお前だからな」
脅しともとれるような台詞。自分でも卑怯だと思うけれど、ここは何としてでも通させてもらう。渇望する、心。彼女の声を聞いているだけで、この手で触れたくて仕方がない。馬鹿みたいに気が急いてしまう。
「美亜、開けて」
美亜はお願いに弱い。普段顔色一つ変えないくせに、名前を呼ばれると嫌がるくせに、こうやってわざと甘く名前を呼ぶと、いつも俺のお願いに負ける。…これは、俺に少しは気があるからなんだと思いたい。
解錠のマークが点滅する。ボタンを一つ押して、エントランスへと足を踏み入れた。
どうせ2階だ。エレベーターを待つのももどかしくて、普段使わない階段を上る。携帯片手に何をしているんだろう、俺は。
「ほら、寒い。早く開けて」
甘く囁く言い方を続ける。美亜の部屋に近づくほどに緩む顔を、少し意識をして引き締めた。
「あー、寒ぃ」
寒いというのを口実に、強引に上がり込む。
目の前には、いつもと違って寛いだ服装の美亜。戸惑った顔をしているものの、あまり嫌そうではない。いつもきつくまとめられた髪がほどかれて、ゆったりと肩におろされている。その髪に手を伸ばしそうになって我に返り、先に口を開く。
「美亜、危ないからちゃんとチェーンまで降ろしとけよ。ほんと、危なっかしいなぁ」
流行る気持ちをごまかすように、冗談混じりに言ってみた。俺の憎まれ口にむっとした表情をして、美亜が可愛らしく頬をふくらます。
「…何しに来たんですか」
「温まりに」
耐えきれずに不意打ちにキスをすると、美亜が固まった後に頬を赤く染めた。何度抱いても変わらない可愛い反応に、俺はどうもやられているらしい。その美亜の反応に満足して、部屋の中へと足を踏み入れる。
「ちょ、ちょっと!」
「ああ、まあまあ片付いてるな。…あ、あ?」
部屋の中をぐるりと見回すと、彼女らしくシンプルな調度品でまとめられている。たまに可愛らしいインテリアが見られるのも、美亜の内面の女らしさを表しているようだ。
そこまではいい。だが、いきなり目に飛び込んできたものに俺の視線は釘づけになった。
誰か来客があったのか、洗われた食器が乾燥用の桶に並べられている。別に美亜が自炊をしているのは不思議じゃない。むしろ倹約家な彼女らしい。ただ、それが一揃いじゃないことが問題だ。
水色とピンクの水玉模様のお茶碗、黒檀のような細い箸が二膳。ご丁寧にマグカップもお揃いで。
むくむくと黒い感情が頭をもたげる。連戦連勝の俺の中では今まで“嫉妬”という文字はなかった。
どういうわけだ?問いただすと、いとも簡単に彼女は種明かしをしてくれた。
「会社帰りに山崎がうちに泊まりに来たからです」
「は……?」
「秘書課の山崎さん。つい最近まで同じ部署で同期だったんで、仲が良いんですよ」
山崎、と聞けば思い当たる人物はいる。美人の園として有名な秘書課の中でも人気の高い人物で、かの曽根女史の可愛い後輩、美亜の親友。彼女の口から出るくらいだから親友の山崎さんで間違いないだろう。
わざわざお揃いで買わなくても。女子の行動は謎めいて、理解しがたい。お揃い、ペアルックとくれば男と思うのが普通だろう?
以前から何度か探りは入れているものの、どうやら本当に男の影はないようだ。例えあったとしてもこちらに向かせるまでだが。
「じゃあ、遠慮の必要はないな」
言うが早いか、ちらりと美亜の後方に目をやる。あたりをつけて美亜の手を引き、強引に寝室へと誘う。
誘い込んで当たったは良いが、そのベッドのサイズに驚く。お揃いの食器と言い、独身女には通常ないセミダブルと言い、俺をわざと試しているのか。
とりあえず、押し倒すほかにないが。
いつものように甘い快楽で、抵抗する美亜を宥めすかす。自分の部屋だということが恥ずかしいのか、いつもより抵抗が強い。美亜の抵抗なんか、簡単に力で抑えられるけれど。
キスをして肌を撫でながら、余計な考えが俺の頭に侵入してくる。いつもならすぐにこの甘い体に溺れてしまうのに、先程いらぬ疑いを持ってしまったせいか、むくむくと黒い感情が心の中を占拠していく。
「ここで他の誰かに抱かれた?」
その甘い声を誰に聞かせた?無駄だとわかってはいても、嫉妬心がおさまらない。女の嫉妬を醜いと嘲笑った過去の自分が嘘のように、見たこともない男に嫉妬している。美亜は違うと言っているのに。そんな器用な女ではないと分かっているのに。この感情が無駄なものだと分かっていても。
「やぁ、あっ」
「ほんと、相変わらずいい声」
強引にしてはいけない、優しくしなくてはと思う反面、めちゃくちゃにしてしまいたいという衝動に駆られる。壊してしまいたい。細い腰を抱いて、弱く抵抗を示す手を抑えつけて、無理やりに俺に縛りつけたくなる。
「あ、…ねが、……い」
ふと、美亜の声に我に返って視線を戻す。潤んだ彼女の瞳がこちらを見ている。扇情的な光景なのに、それにも増して切なくなるような視線。懇願する目。
「キス、し…て」
真っ黒に染まった心が一瞬にして軽くなる。熱くなって、目の前の熱だけに集中し始める。
「はっ、ほんと、お前は…」
俺をどれほど惑わせたら気が済むのか。こんな女、他にはいない。
美亜が良い。美亜だけで良い。
美亜のすべてが、ほしい。
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