嘘つきな彼女
9.落ち着かない男
仕事は朝から全く手が付かなかった。
入力ミスが多い、電話に気付かない、人に声を掛けられているのにも気付かない。
鈍臭いにも程がある。能無しと呼ばれても仕方のないくらい腑抜けになっていた。
美亜のことが気にかかって仕方がない。
パーティションを挟んで反対側に彼女はいるはずなのに、その彼女が気になって仕事がはかどらいないんじゃ、おちおち席を立つこともできない。この書類さえ完成してしまえば印鑑をもらいに行く口実だってできるのに、俺はどこまでミスをすれば気が済むのか。
午前中に電話が入って、事務処理も片付かないうちに外回りに出なければならなくなる。
まさかこれ以上ミスを重ねるわけにもいかない。事務処理でミスをしても、対外的なミスは許されない。クライアントのご機嫌を損ねれば、多大な損失になりかねない。
舌打ちしたいのを抑え、二言返事で電話を切って外出の準備をする。お昼時間を削ればなんとか午前中に打ち合わせに入れそうだ。うまくいけば午後一で帰社できる。
だが往々にしてうまくいかないというときはあるものだ。この日がそうだとは俺は本当についていない。
「今回の企画も大変いいね。さすが井関くんだ」
「恐れ入ります。この案件は特に思い入れが強いので、そう言っていただけてほっとしました」
「今後も期待しているよ。そうだ、お昼はまだだろう?もう少し内容を詰めておきたいから、外食でも出ようじゃないか」
「…ありがとうございます。是非」
これで午後一は無理だ。でも、昼過ぎには戻れるか。
『三木本の行っていたクライアントのところでトラブルが発生したらしい。井関、悪いが向かってくれないか?』
こんな日に後輩の尻ぬぐい。三木本は俺のチームの後輩だから、俺にお鉢が回ってくるのは仕方がないけれど。何もこんな日じゃなくても。
「…わかりました。場所と詳細を教えて頂けますか?ついでに三木本の資料も一式私のパソコンに送ってください」
これで最速でも夕方コースだ。でも仕事では仕方がない。夕方に帰って後は事務処理に徹しよう。それで帰る間際で美亜を捕まえればいいんだ。
うまくいかないことは重なるものだ。
トラブル発生を収め、なんとか緊急事態も乗り越えて、予定は狂ったが社に戻れたというのに。
美亜が見当たらない。
焦燥が募る。どこにいったというのだ。総務の彼女が外出する可能性は少ない。この時期にほぼ有り得ないと言っていい。
5分、10分、いくら待っても戻ってくる気配はない。何度も隣を覗きに行くのにも限界がある。
イライラと幾度目かの往復を繰り返した後だった。
苛立ちを抑えようと飲み物の調達に席を立つ。コーヒーを買って休憩している間に美亜が戻ってきたら困る。仕方がないからお茶でも淹れようと、給湯室に向かった。もしかすると美亜がお茶出しをしているかもしれない。
「あ、お疲れ様です」
そんな淡い期待は一瞬で打ち砕かれた。名前も良く覚えていないような、新人の女の子に挨拶をされた。ちょうど打ち合わせがかぶったのか、給湯室にいたのは若い二人の女の子だった。
「お茶もらっていいかな」
「どうぞ。そちらの給湯機が先程補充したところです」
そのうちの一人に紙コップを手渡される。彼女たちから少し離れたところにある給湯機から、お茶を汲んだ。
お茶を汲んでいる途中、俺が部屋に入るまでにしていた会話を、彼女たちが再開させた。
「それにしても、松永さん大丈夫かなぁ」
「確か岩瀬商事との商談でしょう?さっき聞いたら先方も快く延ばしてくれたっていう話だったけれど」
松永の契約の話に詳しいわけではないが、大口の商談だと同じ課にいる限り嫌でも耳に入る。岩瀬商事は松永が昔から持っている顧客で、今回はかなり大きな取引になると聞いている。
会話の流れからすると、どうも商談がとん挫したらしい。
松永の契約の話なんて、今の俺にはどうでもいい。あいつの不幸を笑う余裕もない。
彼女たちのおしゃべりを背に、給湯室を出ようとした。
「でも、人が倒れたんじゃ、さすがに放っておけないよねぇ」
「これで商談を取ったら先方さんの印象も良くないし」
「桐島さんも役得だよね。松永さんの心配を独り占め」
「病人にそんなこと言っちゃいけないでしょ」
悪びれずくすくすと笑い合う彼女たち。普段なら女の噂話など気にもかけないが、今のは聞き逃せない。
「桐島さんがどうかしたの?」
俺が急に会話に入りこんできたことに、彼女たちの瞳が大きく見開かれた。すぐに噂話をしていたからか、気まずい表情に変わる。お互いに目を見合わせた後、一人がおずおずと口を開いた。
「松永さんが商談のお茶出しを桐島さんに頼まれたらしいんですが、その準備中に桐島さんが給湯室で倒れられたんです。それで、変わって私たちがお茶出しを頼まれて…」
「商談はなくなったけれど、ただ帰ってもらうわけにもいかないからって」
言い訳をするようにもう一人が口を出す。俺が知りたいのは前半の詳細だったが、それを彼女たちに問い詰めるわけにもいかない。
「…それで、桐島さんは早退したの?」
「いえ、運ばれたのが10分程前なので、今は医務室におられると思いますけれど」
そう、となんでもないことを聞いたかのように、短く礼を言って今度こそ部屋を出た。
自分が今どんな顔をしているのかわからないが、心中の焦燥は大きくなるばかりだ。いつものように取り繕うことができない。
仕事途中なのも頭になかった。気付いたら、医務室の方に足早に進んでいた。
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