嘘つきな彼女
4.憂鬱な彼女
こんな関係になるまでに、彼のお茶くみを3回はしたと思う。
初めてお茶をいれたとき、「上手だね。すごくおいしかった」と笑顔で言われ、不覚にもときめいてしまったわたしを今は殴りたいと思う。
あの笑顔、あれに騙されなければ、こんな状態にはなってなかったかもしれないのに。
とにかく、褒められて良い気になった過去のわたしは、彼の言うままにお茶を3回も、またはそれ以上、淹れた。人気の人だったから、他にも喜んで淹れてくれる女子社員はいるだろうに、わたしに頼むのは単純にわたしの淹れるお茶が気に入ったのだろうと思っていた。…正直、悪くない気分だった。
わたしは典型的な地味女で、自分で言うのもなんだけれど冴えないと思う。シルバーフレームの眼鏡にひっつめた髪、飾り気のない顔。初めは本当に化粧も何もしていなかったのだけれど、「お手入れをしない女なんて有り得ない!」と山崎に叫ばれて、一応手入れと軽く粉をはたくくらいにはなった。それでもほぼすっぴん。昔から肌荒れとは縁遠い丈夫な皮膚をもっているので、見れない顔ではないと思うけど…。とにかく、地味顔だというのは自他ともに認める評価だった。
それでも、地味なりに恋人のいた時期はあって、大学時代に一人いただけだけど、とにかくその人も言っちゃ悪いけど地味だった。でも、優しい人で、だから半年くらい付き合った。
結局、お互い熱が高まることもなくて、どちらともなく自然消滅。初体験はそのときに済ませていたけれど、痛いだけでなんの感慨もなかった。
だから、彼に食事に誘われた時には「なんでわたし?」という状態だった。
商談が終わって、お茶碗を下げるまでがお茶くみの仕事。節水という名目上、お茶碗はその日最後に片付けた人が食器洗い機を回すことになっている。それを知っているから、大体の人は下げるのを新人に任したりする。わたしは自分で下げる方。
そして3回目だったか忘れたけど、何回目かの彼の商談のお茶くみの後、商談室使用表を見ると、今ので最後だった。仕方がないから、溜め息をつきつつ、そのまま給湯室に設置された食洗機に入れに向かう。
かちゃかちゃと飛び出たお茶碗をちゃんと水が回るようにきちんと入れなおす。こういうところが、細かいと言われる所以かもしれない。全て入れ終えて、洗剤を放り込んで、ボタンをセット。手洗いを思うと、手も荒れないし、手間もかからないからすごく便利。
これで良し、と一息ついたところで、振り返って初めて人がいることに気付いた。
「っ…、びっくり、…しました」
「ごめん、驚かせたね」
くすくすと笑って、壁に凭れかかるように立っていた人は、先程まで商談をしていた井関さんその人だった。
「今日もありがとう。いつもながら、とてもおいしかった」
「ありがとうございます」
「お礼に食事を、って…ナンパみたいかな?」
にこりと笑って言った彼の言葉に、思わず固まる。お茶を入れただけで食事のお礼?美人なら有り得る下心も、わたしじゃありえないでしょ。
はは、となんとか笑い流して社交辞令を辞去しようとした。
「俺とじゃ食事はあり得ない?」
いやいや、有り得ないのはわたしじゃなくてあなたでしょ。まさか趣味が変わってるとか言わないよね?確か、この間聞いた噂では社内でも指折りの美人な秘書課のお姉様と仲睦まじ気に歩いていたって話だし。
「いえ、お気持ちは嬉しいんですけど、井関さんに誘われただなんて恨まれそうだし」
冗談半分、本気半分に答えると、「周りは関係ないよ」と紳士的な言葉を返された。
何この、絶対断らせない雰囲気。きっと、この人は今まで断られたことなんてないんだろうな。
「お茶くみなんて大したことじゃないですし、誘っていただく理由にならないですよ。ほら、他に井関さんに誘ってほしいっていう人はたくさんいらっしゃますし、わたしは譲りますよ」
やんわりと断ったつもりだったけれど、相手はまだ引くつもりはないらしい。…一体、なぜ?
「…ご飯に誘われたのが、嬉しくない?」
急にぴんと空気が張った気がした。
井関さんの顔は先程までと同じ笑顔で、声のトーンだって、変わりないように聞こえるのに。
「いえ、嬉しくないわけじゃないんですけど、人見知りする性質なので、あまり知らない人と外食するのは」
「知らない人じゃないでしょ」
「…でも、わたし、井関さんとそんなに親しいわけでもないし」
「これから知り合っていけばいい。そのために食事に誘ってるわけだし」
ああ、これじゃあ堂々巡りだ。ぐちぐちと俯きながら言い訳をしていた顔を上げる。
「とりあえず、他の人を誘って―・・」
「断るの?」
そうだ、この人のさっきからの違和感。目が、笑ってないんだ。
口元は確かに弧を書いていて、声だって明るいトーンなのに。目が、一つも笑っていない。ぞくりとするほどの冷たい目。グレイに近いから、余計に冷たく見える。
刺すようなな視線に、戸惑いを隠せない。どうしてここまで、彼は執拗に私を誘うのだろうか。何か裏があると思ってしまうのは、必然じゃないだろうか。
「どうしてもって頼んでも―…?」
「だって、お茶くみのお礼なんて、…わからないです、理由が」
「ただ食事に誘ってるだけだよ。僕は君と食事したい。お茶のお礼なんて、ただのこじつけでね」
ここまで言わせるの?と茶化すように彼は笑った。口だけで。
なぜだろう。その薄ら寒い笑顔が、危険極まりないものに見える。
断るのが恐ろしくて、わたしは最後には頷いていた。わかりました、と一言返すと彼は満足そうに頷いて、にこりとこれまた本気には見えない笑みを浮かべた。
「じゃあ仕事の後で、駐車場で待ち合わせで良い?」
車で来てるから、と彼は付け足す。この男と二人で密室には入りたくない気がしたが、ここで承諾しないと返してもらえない気がした。それに何より、これはただの食事の誘いだ。文字通り、食事だけをして帰ればいい。
わたしは呑気にも、楽観的に考えていた。
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