嘘つきな彼女
5.追い込まれた彼女
なぜこんなことになったのか、一向に思い出せなかった。
覚えているのは、彼の肉食獣を思わせる獰猛な瞳と、それに危機感を感じた時には既に遅かったということだけだった。
「んっ、ぁんっ!」
男の指一本に翻弄され、初めてのときとは明らかに違う感覚に、身体が勝手に震え、混乱の波にのまれていた。
「へえ、良い感度」
官能的な響きを持って、男の声がわたしの耳元で聞こえた。殺人的な魅惑の声。昼間はあんなに爽やかに響いて聞こえていたのに、それが今はどう聞いても、快感を増長するものにしかならない。
どうしてこんなことになったのか。
わたしはあのとき渋々ながらも食事を承諾したのを呪っていた。あの時、何が何でも断っていれば、今のこのわけのわからない状態にはなっていなかっただろうに。
あのときの直感を信じて、危険を察知して回避していれば…。予感は正しかった。車で向かうと言った男の言葉に、何の裏も考えなかったのが馬鹿だった。
車で連れられたイタリアンレストランは、おしゃれで味も抜群、申し分なかったけれど、目の前に慣れない人がいれば、それをゆっくり堪能する余裕もなかった。本当に、残念。
残念に感じながら、車で来た道を回想し、今度は山崎と来ようと決心する。そうしたらきっと、大好きなデザートももっとじっくりと味わうことができる。前菜からドルチェまでそろったコースでなくても良い。
食事の間、会話はそれなりにスムーズに行った。と言っても、わたしが質問の的になって、話の聞き役に徹して、彼がほとんどしゃべる一方だったのだけど。会話上手な彼はわたしを飽きさせなかった。
さすが女性の扱いに慣れているだけあって、あんなに尻込みしていたわたしも、コースが終わる頃には少しは打ち解けて、ようやく僅かな笑みを返せるようになったくらいだった。
彼のエスコートは完璧。車を降りたところから、ワイン選び(と言っても、彼は車で飲めなかったので、わたしがグラスで一杯飲んだだけ)、誇張しすぎない料理の賛辞、話の間合いの取り方、それに会計のスマートさまで。一向にわたしに気を使わせず、遠慮を許さない。矛盾しているが、彼はきっと、たとえどんなに意固地な恋人にでも、わがままを言わせるのも上手なんだろうと思った。
その自然さがいけなかった。レストランに入るまで、帰りはちゃんとタクシーで帰ろうと思っていたのに、当然のように彼が送ると言ったのを受け入れてしまった。それはそれは、完璧なエスコートで。助手席のドアを開いて迎え入れられたとき、一杯しか飲んでいないというのに、いつになく軽やかな気分だった。
今は、そんな自分を罵りたいくらいだった。
気付いたらホテルの駐車場だった。俗な、いわゆるラブホテルじゃなくて、小奇麗なシティホテル。エントランスのドアマンに目を向けると、なぜかドアマンたちは彼に向って会釈している。
いや、待て、なぜこんなとこにいるの?
エスコートが完璧すぎて、無意識に車を降りている自分にも疑問を感じる。
「え、ちょっ、あの」
「最上階だから」
いつの間に受け取ったのか、フロントすら寄っていないのに、彼はわたしの前にカードキーをかざして見せた。抗議は綺麗にスルーされて、腰を抱かれてエレベーターへと向かう。
「ねえ、あの」
「もう黙って」
戸惑うわたしを余所に、エレベーターの扉が閉まるや否や、彼の端正な顔が迫った。
それは一瞬のことだった。目の前には端正な顔。グレイの瞳がわたしを間近で見つめている。唇に触れる柔らかいもの。キスをされているのだと認識した瞬間、恥ずかしくなって目を閉じた。
それがまたいけなかった。目を閉じたわたしをはかったようなタイミングで、舌先がぬるりと唇を這った。思わぬ刺激に口腔が緩み、その隙を逃さず舌が中に滑りこんでくる。
「んぅっ、んん」
絡め取るような激しいキス。初めての衝撃に、頭が回らずされるがまま。翻弄され、甘い刺激に思考が溶ける。
「ん、ぅ」
付き合ったのは一回きりなので、キスはしたことがあったし、それなりにディープなものもした。だけど、キスだけで気持ちいいと感じたことはなかったし、そんなものなのだと思っていた。キスを快感に感じるのは、相手をどれだけ好きかの度合いによるものだと思っていた。
それならば今目の前のこの男から受ける刺激はなんなのだろう。会社の同僚と言うだけで、最近まで何の繋がりもなく、食事をしたのもまともにしゃべったのも初めて。なのに、なぜいまわたしは“気持ちいい”と感じているのだろう。
「降りるよ」
蕩けた頭で、ぼんやりと目の前の平然とした顔を見返した。ちゅっと啄ばむように唇を奪われて、そのまま促されるようにフロアに立った。最上階、なのだろうか。エレベーターが止まったことにも気が付いていなかった。
数少ない扉の一つの前に立ち、ぴっと鍵を通した。ドアを引いて強引に連れ込まれ、そのあたりでなんとか意識は持ち直してきていたはずだったけれど、ドアが閉まった瞬間にもう一度受けたキスで、またもや簡単に吹き飛ばされてしまった。
ぴちゃりと卑猥な水音が耳に届く。羞恥を感じる暇もなく、口内を犯され、意識を快感に溶かされる。なぜ、こんなところにこの男といるのか。なぜ、わたしなのか。そんな簡単な疑問も、快楽の波に流されて浮かんでは消える。
やがて、キスだけで腰砕けになったわたしを、マンガのように横抱きにしてさっさと奥へと運んだ。その移動距離は短くて、抵抗する暇もなかった。これも実は言い訳で、ただ単に慣れない快感に戸惑って、現実とも判断が付かない状態だっただけなのだけど。
「わかってるだろうけど、もう逃げられないから」
傲慢な口調と獰猛な目。ニヒルに歪ませた笑顔を見たが最後、わたしはまたも彼に翻弄されていった。
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