嘘つきな彼女
8.無自覚な彼女
その日の夜だった。
急に携帯が鳴った。表示を見て息を呑む。なんだってこんな夜遅くに。
「はい」
渋々電話に出ると、「相変わらず素っ気ないな」と苦笑した声が返ってくる。会社とは違う皮肉った言い方なのに、なぜかそれにどきりとする。
「どうしたんですか、いきなり」
『いや、お前確か住んでるの部長の家の近くだったよなと思って』
「はあ、そんなことわたし言いましたっけ」
確かにうちの部長の家は近くだった気がするが、それは部長との会話で出てきただけの気がする。しかも、それはうちの課だけでの飲み会の席での話だ。
『部長がやたらお前のこと気に入ってるみたいで、家が近くだって本人が言ってたから』
「はあ…。なぜそんな会話に」
『ああ、部長と飲んでたからな』
「はあ…」
『いま部長送ってきたところなんだけど、もうここじゃ終電ないよな』
時計を見ると、1時を回っていた。この時間じゃ確かに終電は終わっている。
「ですね。ご愁傷様です」
『いや、仕方ないからお前んち行くわ』
「はっ!?」
どこって聞かれても答えませんよ。間違いなく貞操の危機ですから。
『ああ…これか。確かこんな仰々しい名前だったな。部屋、203だっけ、開けろ』
「はっ、ああ!?」
『ほら』
ピンポーンとどこか呑気な音が響く。確かに…これは、明らかにうちで鳴っている。
「あ、開けませんよ」
『ああ、防犯カメラまで一丁前にあるじゃねぇか。オイ、これに映って問題なったら困んのお前だからな』
脅しか。
確かにこの男がわたしのマンションの防犯カメラに映ってて通報されたら、噂が立つのは間違いない。会社で紳士のこの男が、地味女のわたしとどんな噂をされるのやら…。平穏無事な生活は期待できない。
『美亜、開けて』
甘ったるい声でわたしを呼ぶな。勘違いなんてしやしないけど、この人のためにこれからドアを開けると思うと、そういう関係なはずがないのになぜかどきどきしてしまう。
解錠の操作をすると、電話越しにドアが開いた音がした。ドアホンに映る井関さんの姿が消えて、今度こそドアの外で足音がする。
『ほら、寒い。早く開けて』
理不尽な催促に、ドアのカギを開ける。ガチャリ、と扉が開くと、いつの間にか見慣れてしまった意地悪な笑顔。
「『あー、寒ぃ』」
携帯と目の前からのダブルサウンド。ああ、なんで開けてしまったのか。
「美亜、危ないからちゃんとチェーンまで降ろしとけよ。ほんと、危なっかしいなぁ」
誰が危険なんだか。ちゃんとチェーン降ろしとけばよかったよ。
「…何しに来たんですか」
「温まりに」
ちゅっと不意打ちにキスをして、固まるわたしをよそに部屋に踏み入る。
「ちょ、ちょっと!」
「ああ、まあまあ片付いてるな。…あ、あ?」
すたすたと我が物顔で我が家のリビングへ。狭いんだから、こいつの長い足では僅か数歩でキッチンまで届いてしまう。こら、人のプライバシーにずけずけと。
「美亜、何これ」
「はい?」
何これはわたしが聞きたいです。
キッチンの前に立って不機嫌に顔をゆがめる井関さんに慌てて追いつく。何が気に入らないんだか、人の部屋に勝手に上がって、急に腹を立てるのはやめてほしい。
「何、これ」
だんだんと不機嫌さを増していく中、勝手にあちこちの扉をあける。中を触るでもないが、食器やらを見て機嫌を悪くするのはやめてほしい。
「何って食器ですよ。生活してるんだから、食器くらいあるの当たり前でしょう。わたしだって自炊くらいしますよ」
わたしが料理をしないように見えたのだろうか。本当に失礼な人だ。
「そうじゃない。なんで二揃いずつあるわけ?」
「え?ああ…」
不機嫌に眉を寄せる井関さんの前には、仲良く並んだ二つのコップ。
「この間、会社の近くの雑貨屋さんで買ったんですよ」
「どこで買ったのかは聞いてない」
だから、なんでそんなに不機嫌なのよ。
「会社帰りに山崎がうちに泊まりに来たからです」
「は……?」
「秘書課の山崎さん。つい最近まで同じ部署で同期だったんで、仲が良いんですよ」
山崎は1か月前、秘書課に異動になった。秘書課の人が二人寿退社で抜けたらしいので、その穴埋めで呼ばれたと言っていた。でも、秘書課から引き抜かれるあたり、山崎ほど美人じゃないとなかなかないと思う。
「前に泊まりに来た時、お皿が足りなくて困ったので買い足したんです」
「…これも?」
コップ、グラス、お箸と順に指していく。どれもこれも確かに山崎とお揃いで買ったもので、考えるのが面倒だからというだけで、山崎の趣味に合わせて買ったのだ。
「二部屋あるのは?」
「ペットを飼おうと思っていたので…。結局仕事のせいで飼えてないですが」
犬か猫を飼おうと思っていたのに。実家は母親がアレルギーで何も飼えなかったし。念願の一人暮らしでやっと飼えるはずだったのに。
「恋人がいる、とかじゃないよな」
「じゃないですね」
「…いた、でもないよな?」
過去の話?昔はいたけれど、大学のときに一人だけ。
もしかして、わたしが処女だったとか思ってないよね?
「昔はいましたよ。ここ何年もいないですけど」
ふぅん、と気のない返事。人に聞いときながら、失礼じゃないの。
「じゃあ、遠慮する必要ないな」
ぐいと手を引かれ、連れ去られたのはもう一つの部屋、寝室。
「なんで、ダブル?」
サイズに唖然として口を開く井関さん。もう本当、こんなの見られたくなかったのに。
き、期待してるわけじゃないんだから。
この部屋に越してくるときに、親切心からか、わたしが初めて一人暮らしをすると聞きつけた叔母がベッドを寄越してきた。間違えてダブルのサイズを買ってしまったから余っていたの、なんて、押し付け以外のなんでもない。
ダブルサイズなんて、一人暮らしの狭い部屋では邪魔でしかないのに。叔母の親切な押し付けのせいで、今のわたしは最大級のピンチだ。
叔母に押し付けられたのだと言うと、また「ふぅん」と気のない返事をした後、にやりと意地悪く笑った。
「ちょうどいいな」
そのまま簡単に押し倒されて、この後がどうなるかを知っているわたしの体が、徐々に熱を帯びていく。恥ずかしいのに、期待しているわけじゃないのに、ロクな抵抗もできない自分が恨めしい。
「ここで他の誰かに抱かれた?」
「あっん、んなっ、わけなっ…い」
強引に服を剥かれ、手が肌を滑る。無理やりと言っても構わないくらい、わたしは同意の一言も発していないのに、その荒々しい行為とは打って変わって優しい手つきに抗える気がしない。
「やぁ、あっ」
「ほんと、相変わらずいい声」
指が巧みな動きで首筋を下に這っていく。舌がその動きに合わせて、耳の淵を舐める。耳の裏に唇を落とされて、あられもない声を上げる。
「耳、弱いな」
熱い息が首筋を攫う。さんざんわたしの弱点を攻めて、手は新しい場所を求めて下る。
「あっ、は」
その手が中に触れたときには、わたしの体は明らかな熱を持っていて、もう何も考えられない状態だった。
このマンション、壁が薄いのに。まだ、お風呂にも入っていないのに。部屋だって明るいままなのに。
「あっあん、やあ、ん」
中を抉る指の動きに合わせて、はしたない声が漏れる。求めているようで恥ずかしいのに、それを抑えることができない。この熱にわたしは逆らえない。
「あ、…ねが、……い」
「ん?」
は、と井関さんの目をのを細めた眼で見返した。苦しそうに寄った眉が色気があって、声にも目の色にも熱を孕んでその色気を増長させる。
「キス、し…て」
声を止める方法が思いつかなくて、塞ぐようにねだる。熱に浮かされた頭では考えられないけれど、こんなことを言ってしまうのはきっと、自分の醜態を少しでも減らしたいからだ。
もうこれ以上、のめり込むように自分が上げる甘い声を聞きたくない。
「はっ、ほんと、お前は…」
絡まる舌の熱さに、意識がドロドロに溶けてしまえばいい。そうしたら、何も考えなくてすむ。これはただ熱に浮かされただけの行為だって、思い込むことができるから。
たとえ正気に戻った時、この醜態を呪ったって、流されただけだとなぐさめることだできる。
「ん、美亜っ」
わたしを呼ぶ声に、心臓が強く音を立てるのも。
何度も呼んでほしいと思ってしまうことも。
この、わたしに触れる熱から離れたくないことも。
全部全部、きっと気のせいなんだって、思い込めるはずだから。
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