嘘つきな彼女
9.気付かされた彼女
入社して5年目。もう20代も後半に入ってしまったというのに、いつまでこの関係を続けていくと言うのか。
「ねえ、美亜。あれ見てよ、あれ」
社員食堂で午後の休憩をとっていると、目の前で食事をしていた山崎が後方を見るように促してきた。「ゆっくりね」と言う助言に従って、ゆっくりと頭だけで振り返る。横目に入ってきたそれは、見たくもない男の顔だった。
「小野寺ちゃんもよくやるよねぇ」
最近話題になっている二人、井関さんと、1年わたしたちより先輩の小野寺女史。小野寺さんはわたしより年上だけれど、外も中も若い。
「この距離からでも小野寺ちゃんの甘ぁい声が聞こえてくるようね」
童顔で低い身長は、あの甘ったるいしゃべり方を許してしまうところがあるんだと思う。高い声音に可愛らしい顔立ちは更に甘く、年上だとはとても思えない。男性にとても人気があるらしいが、彼女はいまだに独身。どうしてだろうと疑問に思うけれど、山崎には「そんなもんよ」と言われた。
「あの引っ付きようときたら…。井関さんもあれを許してるんだからねぇ」
目の端に、小野寺女史が井関さんの腕に何度も触っているのを捉えた。あの身長差で上目遣いに、何度も迫っている。
ここ最近、噂では小野寺女史がとうとう結婚相手を狙い定めたという話だった。それは紛れもない社内人気ナンバーワンの井関主任で、将来有望な彼もまた、昇進が決まって結婚を考えているんじゃないかということだった。
それを裏付けるかのように、この間営業課の部長が何人かの昇進を示唆するような発言をしたという。まだ人事は発表されていないから、正式な名前は出てこなかったけれど、成績を見るからに、昇進すると思われる人は周知の事実だった。
「井関さぁん、あっちの席があいてますよぅ。あっちで食べましょ」
舌っ足らずな声が間近で聞こえ、わたしは思わず固まってしまう。目の前の山崎は大したもんで、一向に臆することなく本人たちを凝視していた。
「小野寺さん、そんなに急かなくても。僕は並んでますから先に座っていてください」
久しぶりに聞いた声に、無意識に体が反応してしまう。まともに声を聞いたのは何日ぶりだろう。ここ最近は、お茶だって入れることもなかった。前に会ったのはいつだった?食事に誘われたのは?彼がわたしの部屋に来たのは?
噂が立つ少し前、彼からの連絡が止んだ。今までもこんなことがあったし、元々約束をするような関係でもなかったので、とりわけ気にはとめていなかった。
むしろ、せいせいする。休みの日だって、不健康にベッドで過ごすんじゃなくて、映画を見に行ったり、展覧会に行ったり、自分の時間を好きなだけとることができた。山崎だっている。彼女にはもう新しい恋人がいたけれど、たまには休日に一緒に買い物に出かけることもあった。
それが噂が立った途端、急に心に翳りが出たような気分になった。
「そういうことだったの?」「新しい人ができたから?」次々に沸く見当違いな思い。だってわたしたちは付き合ってもいない。好きだと言われたわけじゃないし、わたしだって、彼のことを好きなわけじゃない。ただ流されて、拒めずに抱かれているだけ。それだけの関係だもの。
「ねえ香織、あの噂本当だったのね」
突然横から聞こえた会話に、ぼんやりとしていたわたしの意識が引き戻された。
「ああ、井関さんのことぉ?当たり前でしょ」
甘ったるい声から、それが小野寺さんと、その同期との会話だとわかる。知らずに耳をそばだて、聞き入っていた。
「結婚するならあのくらい良い男じゃないとねぇ」
「ほんと、香織ってばうまいことしたわよね」
けらけらと楽しそうに笑う彼女たちの声はとても耳触りで、頭の奥から鈍い痛みが走った。
ああ、ほんと。わたしってば、馬鹿みたい。
いつからだろう。
優しくされるうちに、期待するようになったのは。
抱かれるたびに、そこに愛情を探すようになったのは。
いつからだろう。…あの人を、好きになってしまったのは。
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